昭和42年1月23日月次祭
丁度、後ろの方が混んでますから、ずっと前のほうへ詰めなさい。
皆さんこの前の18日のお月次祭の御理解をどう頂かれましたでしょうか。ほいでどんな御理解じゃったじゃろうと思うておられる方があるかもしれませんね。どんな御理解だったですかね。まあこれからの椛目の信心の、いうならば私はあの、決定版であったと思います。
カツラの花と言う、シナのお酒のお供えがあっとりました。あのお酒のお供えの、あのお酒ののりがえの事から御理解が頂きましたですね。ここでこうしてお互いがおかげを受けておると。私を始め、ほんとにもったいないようおかげをこうむっておる。そして、まだここ丸15、6年と言うのに、ああした見事な御造営の、もう完成に近いおかげを頂いておると。
あれは丁度、桂先生のご信心の芽が、そしてそれが幹が、葉がしこってそして、あそこに春を迎えて花を咲かせておるようなものだ、と言う御理解でしたですね。
私どもの信心の何物でもない。ただ、丁度こういう時期に私どもが生まれ合わせたということ。そしてお互いが、椛目に皆さん御縁を頂かれたということに、有り難いということをまず感謝しなければならない。
これは私今朝からも(いちい?)の方にお話したことでございますけれども、今日あの、北野の秋山さんが朝の御祈念に参っておりました。今朝から、嶋野の家に御縁についとります悌子さんのお夢を頂いて、お知らせを頂いておったから、お届けをしようと思ったけれど、自分とお父さんのだけはした。ところがその、娘のお初穂がないのに気が付いた。
ああしてお知らせを頂いておったから、おかげを頂かなければならんと思ったけれど、ようく見たらその、はたのさんがおられた。「はたのさん、すみませんけれどお初穂貸して下さい」と言うて、お初穂を済まして頂こうと思うて、お初穂の所へ参らして頂きましてからこうお初穂開かせて頂いたら、なんとそれに島野悌子としるしてあった。
もちろんそれは、いつか悌子さんがお参りした時にお供えをしたかと言うと、折り返してあったのがございましょうけれども、もうほんとにこの神様は生きてござるな。その秋山さんの言葉を借りますと。私どもが神様の姿を見る事もできません。お声を聞かせて頂く事もできんのでございますけれども、神様がこうして生きて働いておって下さる事を椛目では、こうして身近に感じさせて頂けれるということが有り難い、と言うて非常に感激してからお届けがあったのでした。
皆さんもそういう例なら皆さんも本当に身近に、自分の心が神様に椛目とこう向かえば、そういう働きを頂く事を体験しておられる事であろうと私は思うのです。次にはたのさんが出て参られましてから、「先生、ただ今の話を後ろで頂きよってから、この神様の、もうこれは日々の事でございますけれども」と言うて、実は昨日の朝の御祈念、丁度ご親戚の方の(ごこうぎれい?)がございました。
久留米の息子さんから、一番のバスで来てくれと言うお願いがあっておった。ところが、椛目の朝の御祈念にもやはり、お参りしてしたいのでございます。ね。「そしたらどちらをとらして頂こうか。あちらも立ちこちらも立ち、どうぞそういうようなお繰り合わせを頂きますように」と、いつもの久大線で善導寺まで参られました。
そしてバスで行きよったんじゃもう、そこの所の一番のバスが着いたところで、車を迎えに出しておくからと言うことであった。そら向こうの方がっかりさせてもなりませんから、神様におすがりおすがりし善導寺の駅から、バス(乗っとかんで?)来よりましたら、向こうのほうから久富さんの車が、朝のあの車が丁度、「はたのさんどうぞお乗り下さい」と言うわけでここまで乗せて頂きました。
お礼さして頂いて、もちろん御祈念も御理解も頂きませんでしたけれども、やはりお参りさして頂いてやらして頂きましたら、丁度、一番バスが止まりましたとこう言うのである。ね。あちらにも立ち、こちらにも立ち、そういうおかげの頂けれるのが信心なんだ。そこに生きた神様の働きを感じんわけにはまいりません。ね。
そういう時に、「もうよかよか、今日お初穂忘れとるけんで明日でもしよう」と言うところにはです、もう神の働きを見る事も感じる事もできないのです。信心はこの辺が大事ですね。もう神様がちゃんと行けば、一番のバスで行かれん事は御承知だから、もう今日はご無礼してから( ? )行こう。なるほど行けたでしょうけれども、その神様にもやはり、息子の方にも、あちらも立ち、こちらも立ちと言うような体験は、私は頂けなかったと思うのです。ね。
そういうです、働きの中にお互いがおかげをこうむっておるのです。皆、椛目では。そういうような、いうならばです。あらたかなです。働きの中におらせて頂きながらおかげが受けられんとか、ね、生きた神様はまだつかみきらんと言うのが、これはまだ私の信心が確かに足りんのだと一つ、ほんとに悟らして頂いて、そこんところのおかげを頂いて行かなければいけないと思うです。
ではなくては例えば、椛目でこうしておかげを頂ますと、ね、ここのおかげを頂きますとそれでは無うても、なるほどこれが神様のお姿だこれが神様のお言葉か、と思われるような体験を皆がここで受けておるでしょう。ね。そういうようなおかげとてもです。ね。私どもの信心のお徳と言うようなものではない。やはり、初代先代いうなら、一つにまとめていうならばです。桂大先生のご信心が九州に種をまかれ、それが段々、葉になり幹になり葉になり、そして丁度椛目で開花のおかげを頂いた。
そこでただ花が綺麗だと、満開だと見取れてるようなっただけではいけない。ね。たくさんの魚が捕れたが、と言うて有頂天になってるだけではいかん。ね。これを取らして頂く為にはやはり、その網の一点が、いわゆる魚を捕る道具が要っておったということなんだ。元があるということ。
そこんところを忘れて私どもが有頂天になる。なりもしますまいけれども、であっては、結局それがあだ花に終わるというような御理解でございましたですね。あだ花に終わらしては神様に相済まん。また人間もいわばバカらしい話なのだ。それを命運が結実、それが一つの実と、実りとなり、それで自分の力ともなり徳ともなり、あの世にも持ってけこの世にも残しておけれるほどのものをです。私どもは頂かなければならない責任を銘々が感じなければならない、と言うような事をあらゆる角度から頂きましたですよ。ね。
その中にあの、信心辛抱だけではいけない。ね。熟したんでは梅の実がもう梅干にもならん。青い実の時にちぎらしてもらうと言うとく事と同時に、必ずここんところのシソの葉が必要なんだ。シソと言うのは死相が現われたと言ったような、もうほんとに人生、心の上においてです。ね。日々の生活の上においてです。ね。それこそこれが雨じゃろうか風じゃろうか、と言ったようなことに直面するのだけれども、その事こそが、その事こそがシソなのだと。
その事を有り難く頂いて、信心しておってどうしてこのような事が起こって来るか、と言ったようなことではなくてです。それを本当に有り難く受けさせて頂けれる信心にならせて頂くところに、上と下とが一つになるように、天と地一つになって、言うてることが一つになって、それから良い梅の実が生えてくる。と言う御理解だった。
椛目はここんところに焦点を置く以外にないんだと。ね。皆さん頂いたです。その事を覚ておって下さいましたでしょうか。ね。今日はその続きですからそこんところを一つ、講釈しとかんと、忘れそうになっとる人の姿もある。私そげん言うたんで、はあ、どげな御理解じゃったじゃ、と思てから、思い出そうとしよるんだけども、
御理解というものは聞くだけじゃいかんです。ほんとにあのお月次祭からこっち、私はこういうようにその事を、はたのさんじゃない、秋山さんじゃないけれども、生きた神様その事によって、こうやって現す事ができた。頂く事ができたと言う、体験を日々積み重ねて行かなければいけない、と私は思うのです。ね。
今日は、たいへん珍しいお酒が、お供えになっておられましたね。あの真中に、あれは広島の酒だと思うたですが、「賀茂桜」と言うお神酒が2本、ね、賀茂桜。そしてその前、前に「花吹雪」と言う、ね、私がこじつけたと言うふうに思われないでしょう。これからカツラの花が咲いた。けれどもその花は、必ず咲いた花は一度は散るのだ。ね。
その「賀茂」と言うのは、賀びが茂ると書いてある。賀び茂る桜と書いてある。その桜がです、花吹雪なんです。吹雪になって必ず散るのだ。その時を淋しいと思うた事がなければ、その時を難儀と感じてはならない、その時こそ大事にして次の実りを頂かなければならんのだ、。そして次に、今、お花の台の上に、お供えになっておりますけれど、皆さんには分からないでしょう。あれは「菊美人」と言うお供えがあっとります。
神様は、こうして私どもに物言いかけて下さる事が、皆さん合点が行くでしょうか。「もう先生は、なかなかこじつけが上手」と。「むごうこじつけらっしゃる。もう月次祭たんびんに、どうしてあげなふうに、こじつけて話されるじゃろうか」と、ような事を皆さん思うたら、おかげにならんのです。ね。素直に聞かしてもらうということだったですね。素直に聞いて、素直にそれを、行じていかなければなりません。
素直に頼んでからできるようなりません。ね。賀茂桜が花吹雪のように散って行くのです。ね。その後は、私どもの菊美人。菊の花は、椛目の信心のシンボルと言われとります。皆さんがバッチはめておる、このバッチには、ね、菊の花の、まさに八波のご紋章が彫ってございますでしょう。これは椛目の信心の、菊の花と言うのはもうシンボルなんだ。
私どもの心の中に、ね、喜びの花を咲かせなければならないと言うのである。私はいつもこれを載せております。本気で一つ、限りなく美しゅうなりましょうよ。信心は日々の改まりが第一なんだ。「信心とは本心の玉を磨くものぞや」と仰る。磨くことにおいても、改まるということにおいても、ね、ただ自分が美人になりたい美人になりたいだけではいけん。まず垢を落とさなければ、まず改まらなければ、その事を通して本気で、一つ磨かせて頂かなければ、そして教えを頂かしてもらう。化粧をさして頂く。そうして、私は美人が生まれるのである。ね。
ほんとに美しゅうなって行くこと楽しみに、お互い信心さしてもらわないけんのです。ほんとに一つ、美しゅうなりましょうよ。もうこれでいいということではいけません。ね。もうそれこそ、限りなく美しゅうなりましょうよの中には、改まるということと同時に、ね、「本心の玉を磨くのぞや」と仰る、その磨くということが必要なのです。不思議なんです。磨いておりますと。ね。段々改まらせて頂いておりますと、神様の教えが、素直に素直に心に入ってまいります。
今朝からこうして皆さんに申しました。いつでございましたでしょうか、御本部の、まだ以前の祭場で、四国のある有名な先生のお説教をお祭り前に頂いた事がある時に、こういうお話をなさっておられる方があった。そこの、非常に篤信の方である。同時に篤農である。熱心なお百姓さんなんだ。その方があぜくろを取っておられると、お野菜やら稲作や、作物がですね。その、呼びかけてくるのが分かる。話しかけてくるのが分かる。
そして、「ああ、すまじゃった。すまじゃった」と言うてから、あの、(おむらい?)よったら虫が付いておる。「ああ、痒かったろう。痛かったろう」と言うて取り除かれるということ。いやあ、見事に、と言うてその、話しかけたその野菜、野菜が喜ぶ。その心伝わってくる。ね。私どもはですね、もうほんとに万物の一切の物とですね、こういうような、話し合いができれるような間柄になって行く為にです。本気で、その事その物を大事に大事にして行かなければいけません。
その事を粗末にしてから、向こうから話ができるはずがありません。ね。お湯ならお湯、お水ならお水をです、ほんとに大事にしなければいけません。もう一切の物が大事に大事にさしてもらう時に、大事にされて空しくなるものが、もしそれに命があるなら、もしそれが話ができるならばね、「はあ、済みません。有り難うございます」と言うてくるに違いにないです。
私昨夜でした。いつもここ、10時半頃立ちます。昨日ちょっと用事がございますから、慌てて立ちよったら、私は、朝晩の御祈念に参ってくる方は、なるほどご承知でございましょうけれども、私のあの、習字箱のふたを取って、そして、あの、筆を出し、硯、墨をあそこのうちに、こうやって持って来るまでは、丁度お茶の手前をやっとるような気持ちで、もう一つ一つ準備が決まってる。
それができなかったら、なんかお話の方へ差し支えてくるような感じがする。ね。ですから、休ませて頂く時にもやはり、私はあの、筆を一本洗わして頂いといてから、あの、キャップをこう填めてから、そして、いやあご苦労さん、と言う気持ちなのです。それを掛けておりますけれども、休む時には必ず、小さい枕を作っておりますから、それに寝せて、さあ、今からしばらく休んで下さい、と言うて置きなさるのです。ね。
ところがその、10時半過ぎにです。私立ち上がってから、そのへんまで参りましてから、あら、今日は(・・?)忘れとったと思たんです。それでまた、振り返ってあちらに、座り直してから、あら、済みません、と言うてから、ような気持ちで私は、寝せてこう置きました。
途端にです、私の心の中に湧いてくるものがあるのです。私の心に。ね。何か知らんけれども、これが墨や筆が私に話しかけておるのであろうか、呼びかけておるのであろうか、と言うようなものがです、私の心に伝わってくるのです。訳は分からんけれども、ここまで来る間に、私の心の中が有り難さでいっぱいになるのです。
はあ、あん時にお話を頂かせて頂いた。お作物とお野菜とお話し合いができるというものは、こういうようなことでもあろうかと、私は思わして頂いたんです。
ね。皆さんそこんところがですね、もう忙しい人はそげな事はできん。と言うのではなくてです。もうその事がです、私どもの生活の中に取り込んでおらなければダメだということです。ね。
私どもが結局は、有り難うならして頂く稽古だと言うのはです。ね。有り難うならして頂く稽古は思いだけではいけん。お参りだけじゃいけん。お話を聞くだけじゃいけん。拝むだけじゃいけん。ね。拝む事も参る事もお話を聞く事も大事なのだけれども、それを私どもが持って帰って行じさせて頂く、ということなんです。ね。
そこから、期せずして、私どもの心の中に有り難い物が送られてくる。大事にするその一つ一つが私にお礼を言うてくる。済みません。有り難うございます。( ? )大事にしてもろて済みません。と私は、それが本当に値打ちがあるならば、もし、これ、話ができるならばそれが、私はこれに、以心伝心通うてくると。甘木の初代あたりはなるほど、そういうふうなところも、ほんとに体得しておられたんだなと思うのです。
ほここじゅ、ほこ紙一枚でも、ね、それはそれはもう大事にされたということですね。履物履かれるのに、少しばっかり歩かれたら必ずこうやって、こうやって踏み返られた。ね。この片隅でもなったら下駄がきつかろう、と言うような気持ちでおありなのじゃなかったじゃろうか、とこう思うのです。ね。
私ども信心の(末には?)分かりませんけれども、なら私どもでも、そうやって本気で信心にならしてもらい、全てのことを実意をもって、大切にさして頂いておりますと、私の心の中に、そうした有り難いものが通うてくると。ね。そこんところをです。おかげを頂かして頂く。そういう心でです。本気で一つ馬鹿とあほうにならなければいけません。
あちらがあちらだから、言いよったらもう信心はそこまででお終いです。ね。あちらがあちらでも、こちらがやっぱり信心でそれを残してもらうところにです。あれも助かりこちらも助かるおかげ頂かれるのです。ね。勿体無いです。
ある方が昨日、ある方を自動車に乗せて、ね、ところがもうあの人ばっかりはもう、えらい厚かましか、「はい、私はこれからこうなので、あちらの方へ行きましょう」ち後ろから言わっしゃる。もうここにお湯気が立ってくる、たまらんけれど、もうしょうなかけんって連れていってやる。そして思うこと。ほんとにあの人はまあいうなら横着人じゃな、とこう思うわけなんです。
ですから、せっかく長い道のり自動車乗せてから、ね、そして、そういうものですから、向こうでも有り難いもの与えておるはずもない、自分自身も「あん奴ばっかりは厚かましい奴ちゃな」ちゅうてから、自動車乗っとるたびに、わざわざ不平不足を思うたり、心を汚したりしなければならない。
で、そげなこと、私思うたんです。ね。それはなるほど相手の人は厚かましいかもしれん。そんな事平気で例えば感謝もしないかもしれない。けれども、いやしくも神にお参りをして来てるんだもの。ね。もうほんとに、一人でもお導きをするということはたいへんな事なんだもの。それがもう参って来ておるんだもの。
自分が信心になったら、より有り難い信心に注いでいかれるだろう。と思うたらです。例え相手がどうであってもです。ね。それを当たり前な事として、私は、実意をもって大事にさして頂くならです。いくら厚かましい人でもです。ね。ほんとに相済みませんということは神様が分からして下さる。自分自身もまた、ね、ほんとに自動車に持っておる事の冥利に触れる事ができる。有り難いということ。
こういう御用ができて有り難い、と言うものを頂かなけとるならばです。ただお付き合いで乗せて行ってあげるだけであったら、つまらん話じゃないかというふうなことを家の人に話したことでございます。ね。私は馬鹿とあほうにならせて頂くと言うようなことなんだ。そういうようなことではなかろうかとも思う。
ですから、それがもういよいよです。やはり先ほどからこちらが申しますように、ね、本気で有り難うならせて頂く稽古をさして頂き、ほんとに全ての事実意をもって大切にさして頂くと言うところのです。おかげをこうむっていかないと、ね、それができんのです。ね。こういうふうにおろそかにしては、いわばもったいない。ね。
こういうような事はもう常々、私どもの日常の中にあることだろうと思うのです。あっちがあっちじゃから。ね。そこんところをこっちは信心で行くのです。ね。そこんところに私は、自分自身の心の中に、いよいよ有り難いものを頂かしてもらえれるおかげを受けられると。そういうね、努力をする事なんです。精進、信心とは。
今朝から、北野のつるさんが頂いておられます。お夢の中に、ね、今朝、何、どげんだったですね。ちょっと( ? )心の小さい人はね、口が多いと頂きました。よう考えてみると確かにそうである。「はあ、先生の信心はこの人だった」口ではこない言う( ? )よう、ピタッときたけどこれはほんと。考えてみるなら心が小さかろうなと思てから。ね。
ほんとに自分の心の消し粒ごたるの驚くです。いわばもうおかげを頂いて、ね、ほんとにおかげを頂いてです。ね。(?)を頂いて、(おかげだけを?)装うとるだけなんです。けれども確かに心が小さいと思うです。大きい人はごちゃごちゃ言わんです。ね。けれどもです、私どもは、だから私はこうやって、ほんなら口が多い。(口が多いからというのは私はだまっとったら御理解はでけんのですから、?)結局、神様から頂いた事は、私のかくと信じておること、有り難いと思うこと。ね。
これだけを一つ、やはり皆さんに聞いてもらわないけん。しかしよう考えて御覧なさい、確かに口の多い人はですね。やっぱ心の細いです。ほんとに心の良い人は口が少ないです。そういう意味で日吉さんあんたなんかは、典型的なおかげを頂いておる。と私は言うんです。ね。だからそれが磨かれなければ、それがいよいよほんとのものにならなければ、と言うてなら人間の中には、私どものように心の小さい者もありゃ、大きい者も生まれつきあるんですけれども、生まれつき大きいだけではいけんのです。ね。あの人馬鹿じゃろうかと。あれは横着なということになってくるんです。ね。
ですから信心でそれがです。大きゅうならないかんのです。ね。金光様なんかはもう、どんなにんなら、長々とお届けをさして頂いても、「はいはい」としか仰らない。ここでおかげを頂く。私どももやっぱそこんところ目指さなければ。どういうふうなことでも、「あ、そうですか。はいはい」と言うことだけでもう済まされるような、おかげを頂きたいもんだとお願いさしてもらうのでございます。ね。
確かにです。自分が有り難い時にはです。口数多くする必要はないから不思議なんです。心の寂しいときには、やっぱり、こう要らぬ事でも口から出さなければならんような気がいたします。
おかげを頂きたいと思う。ほんとに限りなく美しゅうなりたいと思う。いよいよ、ほんきで菊美人にならして頂きたいと思う。
昨日のじゃない、この前のお月次祭に、どういうような信心をもって、あだ花に終わらせずに、それを実りにして行くかということをです。ね。この前は頂きましたですね。(?)が一つになる時に良い物が生まれるんだと。ね。売れる事も有り難いなら、また、試される事も、ね、返品になってくる事も有り難いんだと言うて、あの田代さんのそういう体験を私話しました。
売れてるだけ有り難い。返品になってくる時にはもうはがゆい、腹が立つ。ね。こらしもうたと思う。これではいつまで経っても、私本当の結実にならないということを申しました。今日は、そこんところをいよいよ、実りを実りとさしてもらう為に、いよいよお互い、菊美人を目指させて頂いて、限りなく美しゅうならして頂くということの上にです。一つ、一回りもう一回り大きゅうならして頂こうではないかと。ね。
もう一回り本気で馬鹿とあほうにならして頂こうではないかと。て言うことを申しました。ね。そんなら、一回り大きゅうなると言うことは、んなら黙って口をつぐんでしまう事かということでもなからなければ、ほんとに(・・?)じゃないけれども、さあ、なら自動車乗ったら、自動車がもう行けって言う所へ、その、連れて行ってあげると言ったような事でもなければです。ね。
それがそう、無事で頂けれる事を有り難いと分からして頂く信心の為にです。そういう心の状態にならせて頂くおかげを頂く為にです。本気で一つ、馬鹿とあほうにならして頂く稽古をさしてもらおうと。ね。限りなく美しゅうならして頂く為に、改まらして頂こう、磨かして頂こうということを、まあ申しましたですね。
どうぞ、この前からの御理解の続きのような御理解でございましたですね。けれども私は、椛目の信心はもうここに焦点を置く以外にないと。ね。そして、そういう、そこにです。ね。そのそこのところに焦点を置かしてもらい、そこんところに有り難いものを感じさして頂けれるように、ならせて頂く時に、私どもが本当に助かって行けれるのであり、助かったということが言えるのじゃなかろうかと思うのでございます。どうぞ。